関八州見晴台(役の行者経由)

埼玉県

関八州見晴台(山頂)からの展望は最高です!

矢印。下の写真の解説です。関八州見晴台の山頂へは花立松峠から20分ほどです。途中に急な登りがありますが、長くは続きません。山頂は高山不動尊の奥の院が建っていて、その右に屋根付きの休憩舎があります。そのほかベンチが3脚ほどあり、山頂の広さはそれなりにあります。

矢印。下の写真の解説です。山頂を示す看板は休憩舎の奥にあります。

矢印。下の写真の解説です。関八州見晴台の山頂からは、武甲山と奥に両神山が見えます。

矢印。下の写真の解説です。その左には富士山も眺めることができます。

矢印。下の写真の解説です。南東側には東京都内の高層ビル群にスカイツリーもくっきりと見ることができます。また肉眼ではなかなか判別しづらいのですが、双眼鏡を使えば東京湾も確認することができます。

矢印。下の写真の解説です。下山は高山不動尊方面へ下り、ぐるっと回って車道を歩いて花立松峠まで戻ります。まずは山頂から下ると車道にでます。奥に見えるガードレールの切れ目のところで再び登山道に入ります。

矢印。下の写真の解説です。ここがガードレールの切れ目です。ちゃんと案内板があるので「高山不動」の文字を確認して降りていきます。

矢印。下の写真の解説です。再び車道に出たら左へ道なりに歩くと花立松峠に戻ってきます。そこを「傘杉峠、顔振峠」方面に登山道(森の中)へ進みます。登山道を道なりに進むとまた車道に出るので、向かい側の登山道へ入っていきます。

矢印。下の写真の解説です。道なりに進むとさらにまた車道に出ます。そこが傘杉峠です。ここにはベンチが2脚ほどあるので休憩することができます。今回は、大平山(役の行者像)経由なので、右の登山道を登っていきます。

矢印。下の写真の解説です。傘杉峠から登山道を登って下ると下のような案内板が出て来ます。ここで案内板にしたがって「役の行者」方向へ進みます。この道は役の行者像のところまではしっかりと管理されていて道が明瞭なのですが、日当たりがあまりよくないためちょっと薄暗いところがあります。

矢印。下の写真の解説です。途中道が分岐する場所がありますが、今回はそのまま直進します。ちなみにこの案内板を右へ下っていくと渋沢平九郎自刃の地を経由して駐車場へ戻ることができますが、登山道はさらに薄暗くなります。

矢印。下の写真の解説です。登山道を直進すると次第に自然林が多くなってきて道は明るくなり、ちょっとした広場に到着します。ここが役の行者像がある場所です。

越生町の指定有形文化財、役行者像を大切にしよう

矢印。下の写真の解説です。広場には出来たての案内板があり、越生町の指定有形文化財に指定されていることがわかります。

矢印。下の写真の解説です。小山の高い場所には石像が鎮座しています。

矢印。下の写真の解説です。なかには鬼のような顔をした石像があったりしてちょっと薄気味悪い感じがします。

高祖役行者像由緒の記

山本坊円法印は室町時代の応永五年(1398)当地黒山に熊野権現を勧請し、一帯を関東の熊野修験霊場として整備した。江戸時代には西戸村(現毛呂山町)に本拠を遷し、以降も越生山本坊を称し、本山派聖護院二十八先達の一つに数えられる大先達として、関東一円の修験に勢力を及ぼした。此処大平山に鎮座する高祖役行者の尊像は、元治二年(1865)の建立である。経緯は詳らかではないが、険阻な山路を黒山の村人が総出で運び上げたと伝えられている。明治維新の神仏分離により修験山本坊は幕を閉じたが、尊像への崇敬は途絶えることなく、明治、大正、昭和の星霜を送った。平成九年九月十二日、法縁あって、京都の本山修験宗総本山聖護院門跡第五十一世門主・加来徳泉師一行が登拝されるところとなった。これを機に、地元信者は越生聖護院門跡講を組織し、山本坊以来の法灯を受け継ぐこととなった。平成十八年の暮、尊像は何者かによって倒され、尊顔が失われるという災難にみまわれた。聖護院の指導協力のもと講員一丸となって直ちに再建に着手した。多くの浄財と労力奉仕を得て事業は順調に進み、平成十九年九月十二日、本山第五十二世門主・宮城泰年師のもと四十名の山伏を以って、採燈大護摩供が挙行され修復は完了を見た。ここに建碑して由来を後世に伝え、地域の安泰と修験興隆を祈念せんとするものである。

平成二十年九月十二日
越生聖護院門跡講篤信の一同

矢印。下の写真の解説です。役の行者像からの下山道は、多少道が不明瞭なところがあったり、急な下り傾斜そしてローブ場があるので注意してください。特に下の写真のロープ場は大きな一枚岩で足を引っかけるところが少なく滑りやすいので慎重に降りましょう。

矢印。下の写真の解説です。ここが傘杉峠からの下山道との合流点です。左へ登っていくと傘杉峠で右へ下ると黒山三滝です。

矢印。下の写真の解説です。黒山三滝までもうすぐというところで道が左右に分岐しています。天狗滝という場所で、朝一番に見た天狗滝の一番上の場所です。左のちょっと細い道を進むと黒山三滝へ行き、右へ進むとみやげ物店の横に出る道です。

矢印。下の写真の解説です。案内板に「天狗滝」と書いてあります。この向かい側をちょっと降りると天狗滝のてっぺんが見えます。

矢印。下の写真の解説です。ここが天狗滝の上部です。一番下の薄茶色の道が駐車場から黒山三滝への道で、右へ進むと駐車場です。

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その他の観光案内解説板

渋沢平九郎について

渋沢平九郎

飯能戦争は、慶応4年(1868年)、彰義隊から別れた振武軍と追撃してきた討幕軍(官軍)との間に発生した維新戦乱の一つである。
優勢な官軍の攻撃の前に飯能市能仁寺の本営は落ち、振武軍は奥武蔵山中に敗走した。副将として参加していた渋沢栄一の養子である渋沢平九郎は、顔振峠を経て黒山へ逃れてきたが、待ちかまえていた官軍に包囲され、22才の若さで自刃した。
ここに平九郎グミと呼ばれるグミの木があり、平九郎の血を宿しているという。

環境省・埼玉県

黒山三滝の植物について

黒山三滝の植物

黒山三滝の周辺から鉱泉にかけては、谷が狭く、湿度が高いため暖地性のシダ類の群落が見られる。
オオイタビカズラ、コモチシダ、ウラジロ、イワヤナギシダ、ヘラシダ、シシラン、アオネカズラ等で、県の天然記念物に指定されている。
特にアオネカズラはここが分布の北限である。

環境庁・埼玉県

関東ふれあいのみちについて

関東ふれあいの道

義経伝説と滝のあるみち

このコースの中心顔振(かあぶり)峠は、奥武蔵から富士山に至る山波の展望にすぐれ、奥州へ逃れる源義経が景色の良さに顔をふりふり登ったという伝説があるほどです。
ここ黒山には、渋沢平九郎自刃の地や、山岳仏教の修験道場として栄えた黒山三滝があります。
伝説と歴史にいろどられた前兆8.0kmの一般向きコースです。

吾野~(3.6km)~顔振峠~(1.8km)~傘杉峠~(1.6km)~黒山三滝~(1.0km)~黒山バス停

まとめ

山頂での休憩時間を含めても4時間かからないルートなので体力に自信がない方でも十分に走破できるでしょう。ただ、役の行者像からの下りはちょっと注意と慎重さが必要です。黒山三滝から日照水を経由するのは上の車道からの筑波山の展望を楽しみたいからです。

前述のとおり、関八州見晴台の山頂からは筑波山はスッキリとは見ることができません。黒山三滝から傘杉峠のルートのほうが一般的なのかも知れませんが、私はこちらのルートのほうが好きです。

ただ、初夏から初秋にかけては筑波山の眺めのいい車道手前の登山道が藪が鬱蒼としてしまうのでお勧めできません。

このルートは晩秋から早春までの寒い時期がベストシーズンです。また歩き足りないという方は、高山不動尊まで下ったり、顔振峠まで足をのばせは4~5時間のコースにすることができます。

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